~きょうだい児としての体験をとおして~
千 葉 真 也(東京大学医学部付属病院小児外科病棟看護師)
- は じ め に
私には,生まれつき重度の障害を抱えた弟がいる。幼い頃より,弟のケアに関わり,“障害児のきょうだい”として育ってきた。本稿では,私自身が“障害児のきょうだい”として経験してきたことやその思い,そこから私自身が考える重症心身障害児者の家族,特にきょうだい児に対しての必要な支援について述べる。
- 弟 の 紹 介
弟は現在27歳。胎児期のサイトメガロウイルス感染症を起因とした小頭症,脳性麻痺といった先天性の脳疾患を抱えて出生した。重度の嚥下障害もあったが,幼い頃はペースト状のものを経口摂取することもできていた。しかし,身体の発達とともに徐々に経口摂取が困難となり,18歳のときに胃瘻を造設した。その後,呼吸状態の悪化により気管切開を施行され,現在は24時間の人工呼吸器管理を必要としている。
重度の精神発達遅滞があるため,有意義語は話せないものの,気管切開をする前は声を出し,意思表示をしていた。気管切開をした現在でも,発声はできないが,表情や体の動きなどでコミュニケーションをとっている。坐位や立位は困難で寝たきりで過ごしているが,幼い頃は寝返りや背這いで興味のある方へ自力で移動していた。
現在は週1~2回のデイサービスへの通所,2~3
�月に1回の施設へのショートステイを利用しながら,在宅で生活している。
- 幼少期の弟との生活
1.弟の﹁障害﹂の受容
私が弟の障害をはっきりと受容したのは,小学校の中~高学年からである。幼いときにも“しょうがいじ”というイメージは浮かんでいたように思うが,そのときは﹁弟はこういうものなんだ﹂と勝手な認識をしていた。弟の病気はいつか治るものであると思い,神社に参拝したときなどは必ず﹁弟が良くなりますように﹂と,願掛けをしていたことを覚えている。小学生になり学校の友だちと遊ぶ機会が増え,
﹁友だちの兄弟と自分の弟は何か違うぞ﹂と気づき始めたのが小学校の3~4年生の頃であった。その何か違うぞというのも,﹁うちの弟は小学1年生だけど,まだテレビで幼稚な番組を見ている﹂など,些細なところから始まった。﹁うちの弟は,ほかの子みたいに言葉を話すことができない,一人で座ることもできない,ご飯も一人で食べられない・・・それが障害児なんだ﹂と,感じたことで弟の障害を受容していったのではないかと考える。中学生の頃には,クラス替えのときなどの自己紹介の場では必ず﹁僕の弟は障害児です﹂と決まり文句のように話すようになっていた。それだけ私にとって弟は当たり前の存在であり,“障害児のきょうだい”であることを,自分の特徴の一つとして意味づけていたように思う。また同時に,障害をもつ弟を“自分が守らなければいけない”という思いを強く持っていたように感じる。そして﹁健常児として生まれた自分は,弟の分まで頑張らなければいけない﹂,﹁しっかりしなければいけない﹂と自然と考えるようになっていた。
2.弟の介護の手伝いは“日常”だった
きょうだい児は幼い頃より同胞の介護や家事手伝いを担っている者が多く,私も幼い頃から母の手伝いの一環として弟の介護に関わっていた。弟の排泄介助や入浴介助,食事の介助など,小学校の3~4年生くらいの頃には全て一人で行えるほどであった。誰かに強制されたことはなく,弟との生活の中で自然に行うようになった。
家族の中に障害のある子どもがいると,介護を手伝わなければいけないため,きょうだい児は大変だな,可哀そうだなと思われるかもしれないが,きょうだい児の立場としては,物心ついた頃からそのような生活をしているため,弟の介護がある生活は“当たり前”のものであった。そのため,弟の介護がある生活が大変だと思うことはほとんどなかった。
私が弟の介護を手伝うと,その度に両親は褒めてくれていた。また,弟のリハビリの関係者や,弟の友だちの家族と交流した際に,﹁お兄ちゃん偉いね﹂,﹁手伝ってくれるとお母さんも助かるよね﹂などと他者から承認されることで,自分の存在意義というものを子どもながらに確立していこうとしていたのかもしれない。
3.リハビリをとおして弟を楽しませたい
幼い頃より,弟の行事に参加する機会も多かった。自分の学校が休みのときには弟の診察やリハビリテーションに一緒に連れて行ってもらい,訓練士たちがどのようなことをしているのか見学し,自宅に帰って弟の関節の曲げ伸ばしや良肢位の取り方など,リハビリテーションの真似事をしていた。弟に,興味のあるものを見せると普段より目の動きや手の動きがいいということを子どもながらに感じ取り,それを意識して行うということが,私の遊びの一つになっていた。普通の兄弟であれば,かけっこや,ごっこ遊びなどをして兄弟で一緒に遊ぶことができるが,私は弟とそのような遊びはできなかった。私が一人で遊んでいる姿を弟に見せて笑わせるということが,私たち兄弟にとっての“遊び”であった。弟を自分の力でどれだけ楽しませることができるか,それを第一に考えていた。
幼い頃は“弟が健常児だったら”と考えることもあった。それは弟の介護を手伝いたくない,などといったマイナスな思いではなく,﹁弟と一緒に走り回ってみたい﹂,﹁どっちが足が速いか競争してみたい﹂といっ
た普通の兄弟としての関係性へのあこがれからきていたように思う。
4.親が弟にかかりきりになり寂しい思いをした
弟との生活は,前述したように私にとっては“当たり前”のものであったが,その中で寂しく辛い思いをしたこともあった。弟が体調を崩すと,母はいつも以上に弟に付きっきりになっていた。時には弟の入院に母が付き添うことになり,父と二人だけで過ごすこともあった。父は仕事で帰ってくるのが夜遅かったため,父と二人で遅い時間に食事を摂ったり,時には祖母がごはんを作りに来てくれるなど,普段と異なる生活を送ることもあった。
私が小学生の頃,弟が扁桃腺摘出術を受けるために 1週間程入院し,私自身が児童養護施設に一時的に預けられたことがあった。学校終わりにいつもとは違う道を通って自分の家ではない場所に帰っていき,馴染みのない子どもたちと生活を共にするという経験をした。幼い頃のことで記憶は曖昧ではあるが,寂しかったということだけははっきりと覚えている。
- 弟を失うのではないかという恐怖
弟は10代半ばをピークに身体機能が低下し始め,経口摂取困難による経管栄養の導入,胃瘻造設,気管切開の施行など,医療処置が必要となった。その頃のことを振り返る。
1.弟の“気管切開”の決断
弟は,もともと胃食道逆流により肺炎を繰り返しており,度々外来での通院や入院での治療を受けていた。弟が15~16歳の頃に,全身麻酔下での手術を二度にわたって受けることがあった。その頃より体力の低下が著しくなり,肺炎などで入退院を繰り返す機会がさらに増えた。そして17歳頃には経口摂取が困難になったため,経管栄養が必要となり,18歳で胃瘻造設をすることになった。
胃瘻造設をした数�月後に,弟は肺炎に罹患し入院した。入院した時点ですでに全身状態が悪く,ICUに入室し気管内挿管を含めた人工呼吸器管理が必要な状態であった。医師に家族全員で病院に来るように言われ,そのときに初めて気管切開の必要性について説明された。医師の説明は﹁命を助けるためには気管内挿管をすることが絶対に必要である﹂,﹁一度抜管でき
たとしても,身体の側弯や気管軟化症もあることから,再度,気管内挿管ができる保証はない﹂,﹁気管切開をした方がいい﹂というものであった。それまでにも何度も弟が体調を崩すことはあったが,その度に乗り越えてきており,﹁今回も大丈夫だろう﹂と心のどこかでは軽く考えていた。しかし医師の説明を聞いたとき,改めて“弟の死”という恐怖に直面し,家族全員がパニックになったことを鮮明に覚えている。初めてICUに面会に行ったときに見た,鎮静下で人工呼吸器管理をされていた弟の姿は忘れられない。当時,私は看護大学の4年生で,臨床実習の真っ只中であったが,全く勉強に集中できる状況ではなかった。それまでは漠然としかイメージしていなかった“弟の死”,“気管切開の選択”という現実を突然突き付けられたように感じた。
われわれ家族が気管切開について抵抗があった理由の一つとして“弟の声の喪失”がある。これは気管切開を考えている多くの家族も直面している問題であろう。先にも述べたように,弟は意味のある言葉を話すことはできないものの,自分の意思を表現するためによく声を出していた。人を呼ぶとき,嬉しいとき,辛いときなど,さまざまな場面で“声”で何かを伝えようとしていた。その弟の“声”を奪ってしまうことは,弟自身の表現する能力とともに,生活の中の楽しみを奪ってしまうことにもつながる。
﹁延命治療をすることで,今は助かるかもしれないけれど,これから先もっと辛い思いをしながら生きていくことになるかもしれない﹂,﹁声が出なくなることでかわいそうな思いをさせてしまう﹂,﹁医療機器をかかえた弟をこれから在宅で見ていけるのか﹂など,弟の身体と心を傷つけることや弟の能力を奪ってしまうことの重大さに家族全員で悩み,話し合った。自分たちでインターネットなどの情報から気管切開のことを調べたりもした。また,両親は当時看護学生であった私に﹁気管切開とはどのようなものなのか﹂,﹁一生声を出せなくなるのか﹂など,質問をしてくることもあったため,自分なりに調べて両親へ説明することもあった。最終的には﹁弟に生きていてほしい﹂という思いから,“気管切開をする”という結論に達した。それは,﹁今は呼吸が苦しいけれども,状態が落ち着けば,また楽しく,弟らしく過ごすことができるようになるのではないか﹂と弟の幸せを切望したうえで,﹁どんな状況になっても家で弟と一緒に暮らしたい﹂という
家族全員の幸せを考えた末での決断だった。非常に苦しい選択であり,弟の救命のために気管切開を“選択するしかなかった”という思いは今でもある。
2.気管切開により“声”を失った弟
気管切開をした弟を初めて見たとき,生きていてよかったと思ったのと同時に,弟が声を失ったことを痛感した。気管切開を終えた後,声を出せないことに驚き,辛そうな顔をしていた弟の表情は今でも脳裏に焼き付いている。今まで当たり前にあった弟の声が突然なくなり,“声を出すことのできる弟”を失い,“声を出すことができなくなった弟”に生まれ変わったような不思議な感覚に陥ったのを覚えている。弟の声が聴きたくて,弟の声が入っている音声や動画はないかと,家の中を探し回ったりもした。
3.家族の日常生活の変化
気管切開後,家族,特に主介護者である母は,自分の生活の中に“弟の医療ケア”というものが追加された。吸入や吸引,人工呼吸器の管理など,今まで病院では見ていても実際に触れたこともないようなことを日々の生活の中で強いられることになった。実際に人工呼吸器を在宅で見るということは,簡単なことではない。人工呼吸器の回路は引っ張られていないか,痰が溜まって気管カニューレが閉塞してはいないか,加温加湿器の水は不足していないかなどを観察するとともに,昼夜問わず人工呼吸器のアラームを気にしていなければならない。母によると,気管切開をして在宅に戻ってきた当初は,﹁痰が詰まって窒息したらどうしよう﹂,﹁知らない間に人工呼吸器が外れて呼吸ができなくなっていたらどうしよう﹂などの不安から夜間眠れないこともあったそうである。
また,弟の気管切開以降,関わる相手も変化した。医療処置がない間は家族だけで生活できていたが,人工呼吸器などの医療機器が必要になってくると家族の力だけでは難しいことも多く,訪問看護や,ホームヘルパー,施設への短期入所などの医療資源を利用するようになった。現在は訪問看護師やホームヘルパーなど,多くの人が家に出入りしている。他人を家に入れることに抵抗がある人からすると,受け入れがたい生活であろう。
このように,弟の気管切開と人工呼吸器装着は家族の生活にも大きな変化をもたらした。
- きょうだい児として将来の不安
私がきょうだい児として,今後のことについて最も考えてしまうことは,親亡き後,弟の介護をどうすればよいか,ということである。弟の年齢が上がっていくとともに,当然ながら介護をしている家族も年齢を重ねることになる。遠くない未来,両親が弟の介護をすることに限界を感じるときが来るであろう。また,両親のどちらかが病気を患うなどで介護が必要になったとしたら,現在の生活は大きく変化することになる。そのときに私と弟の生活はどのように変化していくのか。弟を施設に入所させた方がよいのか,私自身が現在の生活を大きく変えて弟の介護をするべきなのか,そのときになってみないとわからない。今後両親が亡くなった後,弟に関する選択は誰がするのか。兄である私がするのか,それとも第三者に委ねるのか。答えが見つからず,不安に思うことは多い。このような問題は在宅で生活をする重症心身障害児者の家族やきょうだいであれば,誰しもが抱えているものではないだろうか。
両親は,きょうだいである私に﹁弟の介護をさせるつもりはない﹂とは言っているが,実際に両親が弟の介護をできなくなったときにどうするか,未だ具体的なことは話し合っていない。きょうだいである自分からは両親になかなか相談しづらいことでもある。しかし,気管切開を決断したときのように,そのときになって突然選択を迫られることのないよう,少しずつ準備や覚悟をしていきたい。
- きょうだい児への支援
ここまで,私のきょうだい児としての体験について述べてきたが,最後にきょうだい児に対しての支援について,看護師としての立場から私の考えを述べる。
1.親から離れることを強要されてしまうきょうだい児に対する支援
レスパイトや訪問看護を利用して,同胞を介護している親の負担を軽減させることは,それだけ親がきょうだい児の方に目を向けられる時間を作り出すことにもつながる。私の両親もレスパイトを利用して,私の学校の入学式や体育祭などの行事にはほとんど参加してくれていた。そしてこれはレスパイトでの入院だけでなく,普段の小児科での入院でも同様のことが言え
るのではないだろうか。同胞の入院はきょうだい児にとってはレスパイトと何も変わらない。普段,同胞に付きっきりの両親を独り占めできるチャンスでもある。同胞の入院中に付き添いをしている家族に家に帰ってもらい,きょうだい児の時間を作ってもらうこともケアの一つではないかと考える。家族の付き添いがなくなることで,病棟でのケアは大変になるかもしれない。しかし,それがきょうだい児へのケアにつながっているのだと意識してもらいたい。
2.頑張りすぎてしまうきょうだい児に対する支援
私自身,弟の診察やリハビリテーションに連れて行ってもらったときに医療スタッフの方から声をかけられ,褒めてもらえたことで自信がつき,弟の介護が楽しくなっていった経験がある。中には﹁偉いね﹂,﹁頑張っているね﹂などの声かけに対して﹁もっと頑張らなければ﹂と自分を追い込んでしまうきょうだい児もいるかもしれない。そのため,一概に﹁頑張っているね﹂と声をかけることが正しいのかはわからないが,きょうだい児が置かれている状況や抱えている感情に合わせて声をかけていくことが重要なのではないかと考える。病院によっては,きょうだい児の年齢が低いと面会制限がかかることがある。きょうだい児は同胞がどのようなところで,どのようなことをしているのか,両親がなぜ同胞に付きっきりになってしまうのかわからず,孤立感や疎外感を抱えている。医療スタッフの声かけ一つで,きょうだい児の安心感や自己効力感につながるのではないかと考える。
3.きょうだい児の将来の不安への支援
先述したとおり,私自身将来への不安について,自分から両親に話しづらいと感じることもある。また,家族の中で今後起こり得ることを想像もしていない家庭も少なからずあるのではないだろうか。重症心身障害児者の年齢が上がっていくにつれ,その介護をする家族も当然高齢になる。医療者の方から,利用できる制度や支援,ほかの家族がどのような選択をしていたのかなどの情報を提供し,将来の重症心身障害児者と家族の生活について提案していくことも必要なのではないかと考える。
- お わ り に
私は障害児のきょうだいとして育ってきた中で,不
安や寂しさを感じることもあった。また,健常児として生まれた自分は弟の代わりに頑張らなければいけない,しっかりしなければいけないと思うこともあった。きょうだい児の中には同胞のことで悩みを抱えている者もいるであろう。障害や病気を抱える児とともに成長していくきょうだい児にも目を向け,それぞれの発達段階や生活環境においてどのような支援が必要なのか,検討していく必要があると考える。
参 考 資 料
◦千葉真也.医療的ケアを必要とする障がい児の家族の思いと求められる支援;きょうだい児としての体験を通して.小児看護 2018;41(5):563︲567.
◦千葉真也.重症心身障害児の気管切開に対する意思決定支援;きょうだいの立場から考える.小児看護 2019;42(5):624︲629.