療育について

療育について

レットちゃんに対して、日頃どのように接し、向き合っていけばよいのか

専門家の著書、ご両親へのインタビュー内容を、掲載しております。

皆さんのレットちゃんへの日頃の接し方のヒントになれば幸いです。

レット症児の意思伝達手段

意志の伝達
 少女たちが社会的なふれあいに情緒的興味を抱いたり、社会的なふれあいを望むにもかかわらず、そのふれあいを持とうとする能力は“正常”なものではありません。彼女たちは、ふれあいを持ちたいという願望を当たり前の方法で伝達する能力を持っていません。彼女たちは、メッセージや願望・意志を直接的に伝えることに障害があるのですが、これも大抵の場合、関心の欠如というより、むしろ能力の欠如によるものなのです。

 それだけでなく、彼女たちの障害の一部は、彼女たちの周りの世界を形成している我々のメッセージ・願望・意志などが原因になっています。私たちは、言語によらない信号(非言語的シグナル)に気付かないし、種々の解析や解釈にも慣れていません。私たちはレット症児たちが障害を持っている事を知っているのにもかかわらず、この認識を実践の中でなかなか活かせないことがよくあるのです。食事の時に、幼い女の子が手を持ち上げてパンのひときれをトントンと突っついたとすると、私たちはサンドイッチが欲しいのだなとすぐに解釈します。もしその子が居間の本棚まで歩いて行き、数枚のレコードを床に落としたとすると、彼女の表現に限界のあることをつい忘れて、ちゃんとしたお行儀のよい子供であったかのように扱ってしまいがちです。私たちは「だめ、だめ、触わっちゃダメ」と言って、レコードを彼女の手の届かない高い棚の上に戻します。そして、私たちはなぜ彼女がレコードを落としたのかについてよく考えてやるのを忘れてしまいます。たぶん彼女は何か音楽を聞きたいと思ったのではないでしょうか。実際、彼女はこれと全く同じような行動を食卓でも取りますし、これが彼女の表現能力の限界なのです。彼女はレコードを取って、大人に手渡すことができないのです。彼女は自分が欲しいものを要求するために言語を使うこともできなければ、声を使うこともできないのです。つまり彼女は本当に興味を持たないものには手を触れたりはしないのだということを、後になって知ることになります。彼女は選ぶことができるし、彼女は自分ができる唯一の方法でレコードを選んだわけなのです。

 それに加えて、私たちのぺ一スが彼女たちとは違っているので、ゆっくりとしたペースの彼女たちが、私たちに何かを話すための試みをしているのだということを明瞭にすることに必ずしも成功するとは限りません。それにもまして彼女たちのしぐさをあれかこれかと解釈するのに充てる時間が私たちにいつもあるとは限りません。彼女たちにも、意志を伝えようとする私たちの努力に応える用意がいつもあるわけでもないのです。たぶんここでも、我々の言語で意志を伝達することを彼女たちに期待し、彼女たちがどのような言葉を使うのか、また彼女たちがその状況の下でどんなことに興味を持っているのかを忘れてしまうということによるのです。

 一つの例ですが、幼い女の子が人形と夢中で遊んでいます。彼女はその人形を掴んだり、床に叩きつけたり、見つめたり、聞き入ったりしています。彼女はたいそう興にのっていて、遊びは複雑になり、彼女の全神経を集中しています。彼女の障害にもかかわらず、彼女は目下、忙しく耳を傾け、見つめ、そして感じ取り(入力)それと同様に人形を掴んだり、叩きつけたり(出力)して、たぶん彼女自身の動きと、その結果として生じる音との結びつき(調整)を見ているようです。それに彼女は甲高い声で片ことをしゃべっています。ここで母親が、彼女に来るようにと呼びかけます。母親は「いらっしゃい」と彼女の名前を何回も呼ぶのですが何事も起こりません。つまり子供は遊び続けているのです。彼女は聞こえないのではないのですから、呼び声は確かに届いているでしょう。でも呼び声はどこかにかき消えてしまって、女の子は目に見える反応を起こしません。すると母親は、娘の好物で誘って彼女の注意を引こうと決意します。母親は、子供にとって人形と遊ぶことよりもいっそう勝る’刺激を与えようとします。「アイスクリームがあるからいらっしゃい」と母親は呼びました。すると女の子は遊びをやめて、耳を傾けます。母親は呼び声を繰り返し、子供は人形をかたわらにやって食堂の方へと這い出します。しかし母親が「歯磨きの時間よ」と言いながら、手には歯ブラシ(彼女が嫌いなもの)を持って部屋に入って来ようものなら、彼女はその代わりに完全に母親を無視して、人形遊びに余計に熱中することになります。この3つの状況は一見、大変似通っているように見えますが、この女の子は、3つのそれぞれのケースで、彼女を取り巻く状況と相互に作用し合っていますし、種々の反応で対応しています。

 レット症候群の人それぞれが自分の外の世界に立ち向かおうとし、また意志の交流をはかろうとしても、彼女たちは選択しようにもわずかなレパートリーしか持ち合わせていないのです。彼女たちは、自分自身を表現するのに、あまりたくさんの方法を持ってはいませんし、彼女たちの信号は強さや持続性がしばしば制限されます。彼女たちが自らの努力を如何に長く持続しようとするかは、自らのこれまでの経験と現状における可能性によって左右されます。しかも当然のことながらも、彼女たちにとって疑問に思うことのメッセージを私達に伝えることがいかに大切なことかということにも左右されます。

 時々は、つぎの例のようにハッピーエンドになることもあります。幼い女の子が給食を食べています。彼女は給食が大好きで、口をいっぱいに広げてスプーンに向かって上体を曲げたり、身体全体でうれしさを表現しています。でもしばらくして彼女は急に食べ物を拒否します。彼女のしぐさからは食べ物を欲しがっていると解かるのですが、スプーンを口に近づけるとしっかり口を閉じてしまいます。スプーンがなくなると彼女はうれしくないのに、さりとて他の食べ物をスプーンにとって食べさせようとしても口に入れようとはしません。彼女の先生は他の食べ物、サラダパン・水やジュースまで試してみます。でもだめです。その子はマカロニプディングが欲しいのです。しまいには彼女は泣き出してしまいます。そこで先生が温かいところをとお皿の深いところからとりだした、とりたてのプディングを彼女に与えます。今度は食べます。しかも頬張って。問題は彼女のお皿の食べ物が冷めていたことなのです。彼女は食べたいとは思っていましたが、温かいものが食べたかったのです。このケースでは、子供は精一杯はっきりしていましたし、かなり単純なメッセージを我慢強く送り続けたので、私達が正しい解釈をすることが可能になったのです。それにまた、ひとりの子にふたりの大人が関わりましたし、子供のメッセージを推測するにも互いに援助し合うこともできました。他に誰もいない部屋で静かでしたし、時間の制約もありませんでした。場合によっては、ちょっとした願いを叶えてあげるのに何とこんなにも多くの条件が必要なこともあるのです。

 いつも完全なハッピー・エンドとはいきません。私たちは、私たちの解釈の正しさを信ずることはできません。言い換えれば、私たちは彼女たちの要求を満たし切ることはできません。その日の午後、その子と母親がデイケアセンターから帰るときに、私も一緒に帰りました。家に帰りつくと、母親はテープレコーダを聞かせて幼い娘を喜ばせてやろうと思いました。でもその子は少しも喜ばないで居間に入るのを拒みさえします。彼女は外のドアを見ながら、玄関に立ったままです。それから、母親の方を見つめます。彼女は居間へ向かって歩き始めしたが、すぐドアのところへ戻ってしまいました。息づかいが荒くなり、両手を握り締めて、だんだん苛立ってきました。しまいには、悲しげに泣き出しました。はじめ、この状況は私がここにいるせいではないかと考えましたが、私には自分のせいだという感じをつかめませんでした。彼女は私には目もくれないばかりか、疑わしげに無視しようとさえしたのです。彼女の母親も、これは私には何も関わりがないないと考えました。母親は思案して途方にくれ、ついに理由に思い当たりました。彼女たちの日頃の習慣では、家に帰る前に買い物に行くことでしたのに、きょうはデイケアセンターからまっすぐに帰ってしまったのでした。当然、これは女の子の目には間違いだったのです。彼女はいつもしていることで、しかも大好きなことをやりそこねてしまったのです。今となってはやり直すには遅すぎますが、母親はたいへんに結構なやり方で話してやりました。母親は自分が混乱していたこと、そしてなぜそうなってしまったのか分かったと娘に話しました。そして最後には、女の子は、居間にいって音楽を聞くように説得させられたのです。

要求と覇里の表現

調査対象のすべての少女は、うれしいことやうれしくないことを感情による表現、身体による表現ならびに顔の表情で示すことができます。また彼女たちのほとんどが周囲の人に理解できるやり方で“そうして欲しくない”ということを表現することもできます。彼女たちがこのことをどのように表現するのかは、ある程度彼女たちが獲得した反応によります。例えば、もし理学療法を受けないと心に決めたとすると、理学寮法を行う人に抵抗したり、視線を避けたりするでしょう。もし大人が彼女のやる気を起こさせられないまま、理学療法を続けるとすると、彼女は怒ったり、泣き始めたりします。それでも効を奏さないとなると、彼女は眠り込むということもあります。もしこのような状況がしばしば繰り返されるならば、理学療法の時間になるといつでも彼女は眠り込むことになります。

 調査対象の女の子のほとんどが、食べものの見える食堂のテーブルに座ったときに、自分の欲しい食べものを要求することができます。でも彼女たちには、状況を予測したときに、単なる感情表現によらない他の方法で要求や願望を表すことはよりむずかしいことなのです。例えば、より進歩したやり方で空腹をうまく表現できるのは、彼女たちの3分の1にすぎません。冷蔵庫のドアに近寄ったり、ストープのところから母親をじっと見つめたり、お皿の絵を叩いたりすることなどは、彼女たちが自分を表現することができることのいくつかの例です。

 その女の子たちの半分くらいは、もう少し変化した方法で自分の願望を示すことができますが、そのほとんどのケースが極めて限られた状況におけるものです。例えば、スプーンには口を閉じて、その後でコップを見すえて、次ぎは飲み物が欲しいということを示します。テレビのところから大人を見つめて、テレビ番組を見たいということを表現する子もいます。他には、散歩に連れていってくれる人のそばに近づいたり、外出着を叩いて散歩したいという思いを表現する子もいます。たいていの場合に、これら願望と意志の表現のほとんどが、彼女たちを熟知している人に解釈してもらわなくてはなりません。他の人にとって、この信号はあたかも駄々をこねているといったような他の行動と見間違えやすいのです。

 この女の子たちは、ごく普通の方法で、しかも誰にでもわかるはっきりとした方法で自分自身を表現する能力を持っていないのです。

言語による表現能力

 兄弟たちより上手に話すことができないとしても、ほとんどの子がいくつかの言葉を学んでいるし、その言葉をふさわしい方法で使いはじめます。たいへんまれなことですが、年令の低い子ほど言葉を使い続けるということがあります。多くの女の子が、過呼吸時の息を吐くときに、しばしば明瞭に言葉を発しますが、周囲の人にとって言葉が正しく話されていると理解することを大変困難にさせていることも事実です。多くの両親が、このしゃべり方を「彼女がささやく」と言い表しています。一部の女の子にとっては、言葉を見落としやすくし、しかも、すべての発声が全く別の片言を想像させるような他の音に取り囲まれているときに、言葉を発しやすいように思われます。一部の子は頻繁にしかも活発に声を出したりカタコトをしゃべるのですが、言語ではなく意味もありませんし、ましてや会話をしようというものでもありません。 全体として、音声やカタコトが意志の交流に使われることはめったにありませんが、感情の表現とか遊びのついでに使われることはよくあります。この女の子たちは、絵や対象物に名前をつけるのに言葉を使うことがあります。しかしながら、彼女たちが、自分たちの言葉を気まぐれに使っていると思われることがあります。彼女たちが本当に自分の周りの人々に対して自分自身を表現したいと強く望むときには、彼女たちの言語障害は明白となります。私自身も他の人々と同様に、彼女たちがなんとか話したいと願い、また話そうと努力しているのですが、うまくいかないというところを目の当たりにしています。ある子供は、全神経を集中して身体全体を動かし、口をいっぱい動かして、同時に、自分が意志を伝えたいと思う人に全力で集中します。それにもかかわらず、と言うより努力すればするほど、彼女たちは言葉をつくりだすことに成功しないのです。「言葉が舌の先にあるようでいて、それを外に出すことが出来ないかのようだ」とよく言われます。本人が全く話そうとしていない時に、言葉が、それこそ「言葉自身から」出て来ることがあります。多くの子がパニックの瞬間に「ママ!」と叫ぶことが出来ます。調和のとれたくつろぎの瞬間に、突如として言葉が出ることもあります。この現象は、一生のうちに数多ぺ起こるものではありませんが、多くの少女たちの一生のうちのある時期に起こるものです。例えば、ある時、女の子が父親と一緒に商店街に行き、交通信号に大変心をひかれました。青い色の人(信号機の人の形をした青信号)を待っている間に、父親が信号機のことや「赤い色の人」がどういう意味なのかいろいろと彼女に話したのです。その日の夕食中に、その子が突然「赤い色の人」とはっきりした声で言ったのです。他の例では、おじいちゃんがしばらく滞在していたことがありました。朝、おじいちゃんが階段から降りてきて「おはよううといいますと、女の子が「ハイ!おじいちやん」とはっきりと応えたのです。これも、彼女の普段の能力をはるかに越えたものです。

 寝ている時のほうが、起きている時にはとてもできないようなたくさんの声を出したり、言葉のような音声を、しかもより上手に発する、と何人かの両親が報告しています。この種の情報は得られるにつれて、これらの事実をより系統的な手法で調査することが、とても興味深いものになりそうな予感がします。8つの事例を述べました。今度紹介する2人の女の子は”疲れた時とか、眠り込みそうな時に”言葉のような音声をより頻繁に出します。

 多くの両親が、てんかんの発作の時でも、彼らの娘たちが一層おしゃべりになったり、精神的にも肉体的にも一層うまくできると報告しています。

 一般に、年令の高い子ほど、年令の低い子に比べて物静かです。彼女たちは、か細い信号しか持ち合わせていませんし、意志を通じ合おうとすることに忍耐強くもありません。ある母親は「あの娘は本当に話をしたいと思っているようでした。そして、話が出来なかったり、話が通じなかったりすると、しまいには諦めてしまい、今では話をしようともしません」と言っています。

その他の表現のしかた

 運動能力に関して言えば、もちろんレット症児は、動くことや触ることで自分の意志を表現することが出来ます(例えば、幼い女の子が自分の外出着に近寄って自分の外出着を叩くことで、散歩に出かけたいという意志を教えるように)。しかしここで述べる“眼差し”は、意志を表明するための最も際立った方法です。眼差しとは、自分のやりたいこととか、手に入れたいもの(あるいは望ましいものとか状況が描かれている絵とか)を見つめることを言います。一例をあげれば、両親と一緒に散歩をしている時、自分の車椅子をじっと見つめることで、それに乗ってどこに行きたいかを表現することが出来る女の子がいます。その他の例として、食卓の上の特に好みのものを見つめるということもあります。女の子が、大人から自分の欲しいものへと視線を移して、またその目を大人へと向け直し、大人がメッセージを理解するまで繰り返すということもよくあります。調査対象児のうち3分の2が、全ての年代にわたって眼差しを行います。

 それ以外の女の子も、例えば“尋ねる”等のやり方で、自分の目を通して情報を求めます。ある幼い女の子は、物置の扇風機が外されたことにすぐに気が付き、母親からそのことの説明を受けるまで母親から目をそらして空っぽになった壁を見つめ続けたのです。女の子が見知らぬ人を一目見て、そのあと、その人を知っていてその人を紹介してくれるであろう母親を見つめます。そうしてから、その目新しい人物をより深く知ろうとし始めるのです。

 調査対象児の中では、情報を与えかつ要求するために目を使うこうした能力は特に顕著にみられます。その他の子供達の場合では、この能力がいっそう微弱で、解釈するのが困難で、時には彼女たちのテクニック(極めて短時間で、しかも素早い一瞥)にもよるものでしょうし、場合によっては彼女たちのシグナルを期待していないし、その結果彼女たちのシグナルに注意を払わないという事実にもよるものでもあります。

 眼差しの能力は、年齢が進んでも、症状が進んでも、衰えることはありません。それどころかその能力はしばしば改善し、コミュニケーションの目的のために用いられるようになります。両眼はしばしば一層しっかり固定されるようになり、周囲で観察する人々をゆっくりと見やるようになります。女の子が精神的にも肉体的にも退行して、他の意志疎通の手段が働かなくなっても、眼差しは依然安定しています。

 “眼差しをする人”として記述されない人たちについて述べますと、その多くが、いまだに、彼女たちは“自分たちの眼で話をしている’のだと考えています。彼女たちは、自分の気持ちや雰囲気を眼を通じて表現します。しかも、他にはごくわずかなしぐさのレパートリーしか持ちあわせていない子供でさえ、極めて表情豊かな眼をしばしば持っているのです。

間接的な信号

 レット症児たちは、また他の方法でも自分を表現します。意識的な意志の交流にはならないかも知れないけれども、まだ私たちに情報を伝える信号として機能する方法で、例えば常勤行動の強さとか、その子の活動の全般的なレベルなどがそのような信号の例です。
 自己陶酔の度合いも、その信号についての他の例です。もし女の子が閉じこもり状態に入ったとすると、それは精神的又は肉体的な因子に起因しているかも知れないし、あるいは彼女が、他に代えることのできない行動にすっかり心を奪われてしまったのかも知れません。彼女の閉じこもりも、参加したくないとか、あることが難しすぎる、余りにもばからしい、余りにも退屈だと気付いたか、さもなければもうこれ以上集中できなくてやりたくないということを知らせるための、私達へのより直接的な信号なのかも知れません。多くの人々は、このような状況に異議を唱えたり、そこから立ち去ることができますが、もしそうすることが出来ないとすれば選択肢は多くはありません。レット症児には、金切り声をあげるか泣くか閉じこもり状態に入るか、あるいは眠り込むぐらいしか出来ないのです。
 ほんのわずかな反応や信号だけによるレパートリーしか持ち合わせていない場合、ひとつの行動で多くのことを表現しなければなりません。ひとりの女の子が閉じこもり状態に入ったとすると、ある場合には「つまらない。私は楽しくないし、本当に病気になるしかないわ。誰も私の車椅子の方向を変えて動かすのを手伝ってくれないなら、私は他の選択肢を持たず、私自身の中に閉じこもるしかないわ」と解釈するのが適切かもしれません。
 その子についてよく知っている人には、どんな時に彼女は本当にひとりになりたいのか、どんな時に自閉的状態から抜け出すための手助けを必要とするのか解ります。

Barbro LINDBERG 著 / 日本レット症候群協会翻訳部 / 典型的な症状と行動の説明

卒業後、在宅にならないために

講演 中本 紀美 (1995.7.29・赤城サマーキャンプに於て)

1965長女弥生さん誕生。
辺縁性前置胎盤による異常分娩で重症心身障害.

脳性麻痺・視神経萎縮による全盲
1968転勤で東京へ.
以後転勤の繰り返し行く先々で運動に参加
1977練馬障害児(者) を持つ親の会で積極的に活動を開始する
1979卒業後の問題を中心に取り組みを始める
1980練馬に公立の障害者の実習所(作業所)をつくる会を発足、
代表となる
1985卒業後の通所施設づくり・緊急一時保護預かり制度・街づくり
・摂食訓練・学習会・行政計画etc.に力を注ぐ
1994練馬障害児(者) を持つ親の会会長辞任
区立福祉園父母の会連絡会代表となる

はじめに  
 娘の弥生は 8月 6日で30歳になります。私が昭和15年生まれですから、もう55歳なんですよね。今、養護学校に行ってらっしゃる方とは全然違った時代を送って来ましてね、養護学校に入ること自体が出来なかった時代なんです。

 東京に出て来ても地域に通園施設というのも無かったし、生まれた時も前置胎盤で出血多量でも救急車も奈良には無かった時代で、家に電話も無くて駅前まで電話を借りに主人が走ったという時代なんですね。そう言う時代を暮らして来ましたので、まあ何と言うんですかおばさんが苦労話を喋ると言う感覚になってしまうんじゃないかなと思うわけですけれど、また逆に今の大泉養護学校のお母さん達が卒業を迎えて非常に戸惑ったり、混乱しているのを見ると、そういう辛い苦しい時代を生きて来たから大変だとは思いますけれど「やったら出来る」という自信がありますので平気なんですよね、意外と。

 先程ちょっとお話しした関越道の防護壁をつくる運動も、今フランスの核実験に対する反対運動も、みんな市民運動と言うことでは同じだと思います。障害者運動もいわゆる「障害者のためだけの運動」ではなくって「市民運動」じゃないと駄目だと、この運動をやって来て思いました。障害者運動とは何なのかと言うこととか、それから常に理念というものを求めて、これで良いのかなと思いながら夢中でやって来たのですね。だから気が付いたらアッという間に55歳になっちゃったという感じなんですが・・・ 。

 何も知らなかった時代にうちの娘のような重度の子供を養護学校に入れようと思って頑張ったら入れた、それから今度は全員を入れようという全員就学運動を東京の先生や親たちが全国に先駆けてこの運動を展開し、障害児も普通のお子さんと同じように学校に入れるという東京都の全員就学制度から更に国の義務制になって、就学年齢を迎えた子供全員に教育委員会から就学通知が来るということが、そこで初めて当り前になったんですね。でも私たちの時代は、現場の各学校を歩き回って個人折衝をして熱心な親だけが重度の子供を養護学校に入れることができたという時代だったんですね。

 こうして熱心な親たちが学校に入る運動からやって、学校には入ったけれど出口がないという卒業後の危機感があったわけなんです。 9年間あるいは12年間は安泰で暮らしているけれど、出る時はどうなるんだろうという不安があったんですね。
かと言って、まだ小学部あたりの時は親が付かなければ学校に入れないという時代で、むろんスクールバスもないから送って行って全部学校でやって、連れて帰るという時代を送って来たんですね。だから今養護学校に入れてらっしゃるお母さん方の話を聞くとね、親たちがまとまる事自体が大変なようなんですね。PTAはあるけれど、通所施設をつくって行こうとしてまとまっていくときのリーダーがいないという実情を聞くんですね。でも私やらなければどうにもならないということが分かっていましたし、先生からも「行く所はないよ」とさんざん言われていました。またやっている親達をよく知っていました。中学部あたりから娘がバスで登校したら帰って来るまで自分には自由な時間があるようになったし、その頃から本当に通所施設つくりをやらなくてはと、1979年卒業後の問題を中心に具体的に取り組み始めました。

 私はそれまでもトップには立っていないけれど、いつもトップの人に付いてちょこちょこと厚生省にも都庁にも行って、どういう状況なのかを始終頭の中に入れて「ハハーああいう風にやるものなのか・・・ 、こういう所に行けば聞いてくれるのか」と全部に首を突っ込みました。ですから、これからいよいよ卒業後の問題だと思った時には、厚生省がどういう所かとか都庁がどういうところか練馬区がどういう所かということはだいたいわかっていましたので、どういう風に言えば役所の人が情にほだされるかとか、どういうことを言えば嫌がられるかとか、どういう場が苦手でこういうことを言えばうなずくな、ということが身に付いてわかってきました。難しいことじゃなくて、肌身で実感してきました。理屈はわからなくても、リーダーとしてやるまでには、それまでの先輩たちや先生が行こうと言った所にはいつも付いて行きました。 学校の給食が終わってから弥生をおんぶして電車に乗って(その頃は車の運転に自信がありませんから)都庁まで行くわけですよ、その帰り夜7時か8時になって、会社から帰る主人と同じバスに乗ったことがありました。今でこそ夫は今日みたいにこの会場まで車で送ってきてくれたりしますけど、その頃の男の人の考えは、女の人は家事をやって子育てをして・・・、という風でしたから関心がないわけで、専ら会社の方を向いているわけです。自分の妻が近くにいてもわからないくらいに。私もすっかり障害者運動に向いちゃって、無我夢中でやったという時代でありました。夫が単身赴任中はとてもやりやすかったです。尻込みをしないでちょこちょこと付いて歩くことによって、政党がどうとか議会がどうとかいうこともわかってきたんです。本当に何の資格も持っていない親なんですよね。高校卒業して銀行に5年ほど勤めて、結婚して、初めて生まれた子供が弥生ですから、過保護に育てられて世間も全然知らなかった、ただのおっ母さんなんですよね。

 親が先頭に立って運動を進めた公立の通所施設はあまりないそうなので、その実績から方々から呼び出されてお話する機会があります。ここにはお父さんの顔が見られますが、ほとんどお母さんたちの集団の中に呼ばれるもので、お母さんたちを対象にしてお話するのですけれど、たいてい聞いただけで、ああ嫌になっちゃったとか、私達にはとても出来ないわ、ということになっちゃうので、行って良いものやらどうか迷うのですが、事実ですし大袈裟に言っているわけではないのです。しかし、勉強しながら一生懸命やっていけば必ず開けてくるな、というのが実感としてありますし、ぶつかっても抜けられるし、必ず力を貸してくれる人がいます。

 運動を始めてすぐに実績なんか絶対あがってこないし、光すら見えて来ないんですよ。卒業後の行き場所もないという危機感はみな持っているので、やりましょうという段階では、みんな集まってきます。呼び掛けには集まってきますが、やってもやっても見えて来るまでには年数がかかるし、ぶつかることが多いし、意見が分かれるし、光すら見えてこない。そのうちに歯が抜けるようにボロボロ欠けていくんですね。本当に頑張り通して最後までやったというのは、とどのつまり1人か2人位がしゃにむにやってきたという時期もあります。

 公立の通所施設をつくることを目指しましたので、「通所施設用地買収費何億何千万」という予算が計上され、区報に載ります。そこで初めて多くのお母さんは本当に実感するんです。会(『練馬に公立の障害者の実習所・作業所を作る会』)はありましたけれど、呼び掛けても呼び掛けても来なかった人達がそこで初めて来るようになるんです。場所が決まり、建設が始まります。オープンセレモニーが催され、募集が始まる。そういう過程を経て「人間ってこんなものなのか、一緒に仲間だと思っていたお母さん達より、障害福祉課の人、区長、議員さん・・・、何回も何回も会って話をしているうち、そういう人達の方が本当に抜け道がないんじゃないかと思った時にポッと拾ってくれるという時がありました。部長さんの言葉に気持が救われたという時もあるんですよ。本当に仲間とは何なのかと思った時もあります。だけどみんな人間だと、それもひとつの人間の本来の姿なんだと、具体的に見えてこないとしゃにむになれないんだと思えるようになりました。役所の人だって、始めは「中本さん、何億もかかるんだよ、一か所買うのだって・・・、住民運動の反対だってあるんだよ」

「障害者の施設に多くの税金費して、あんたたちどうなんだ、金掛かるばっかりじゃないか」とやられる時もあります。課長は2~3年で異動します。気持ちを汲んでくれる課長もいます。それも含めて全部人間なんだと・・・ 。こういうふうにやって行く者がいないとこういう施設は出来ないんだと思いました。

 公立の施設というものはそういうもので、親の中には区報を見てパッと入ってくる人もいる訳で、障害福祉課がつくってくれた、区長がつくってくれたと思ってしまうわけなんですよ。でも、そういう施設は一か所もありません。お母さんたちの運動があったり、あるいは関越自動車道の「こういう壁は困るんだよ」という運動があってはじめて、住民の暮らしというものが向上していくのだということを、弥生を持ったおかげで知ることが出来た。弥生が本当に色んなことを教えてくれた。私にとって人生の先生というのは多分弥生だろう。父や母や先生からも、こういうことは教わることはなかった。重い障害を持っていても無駄な人間は一人もいない。何らかの形で影響を与えているんだという風に思うようになりました。弥生が小さかった頃には、子供は施設へ入れて母親は働いて社会に貢献するといった風潮があったんですね。だけど私は弥生を離したくなかったんですね。弥生を施設に入れないで育ててきて良かった。弥生がいるから出来るんだという部分はあるんです。いろいろ苦しい事があったりして、家に帰ってボーッとしている時があるんです。

「あんな事言わなければよかった、これから電話しようか」などと考えている時に、5語しか言えない弥生に「マーマ、マーマ」と言われ、はっと気が付くこともあります。弥生によって気持ちが切り替わるんですね。そういう風に子供と一緒に暮らして行けたらね、大変なことも結構クリアーして行けるんですよね。うまく子供と生活しながら運動をやっていけるよになると、やっていることが楽になりますので頑張っていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。

運動の始まり
 地域の中で障害者運動をやって行こうとすると、今の日本の法律の体系は精神薄弱者福祉法とか身体障害者福祉法とか、障害の種別に分かれてしまっているのです。施策とか制度とか手帳も障害の種別によって分かれているのですが、地域の中を見た時には障害別に分かれてやっても声がバラバラでしかも小さくて、練馬区の人口60何万人の中で障害者というのは本当にわずかしかいないわけで、いくら声を張り上げても区行政を説得する事は出来ない。声を出来るだけ大きくしないと議会も通せない、署名も取りづらいということになってしまう。
 『練馬区障害児(者)を持つ親の会』がなぜ発会したかと言いますと、障害の種別を問わないで誰でも入れる会で、保健所の3歳児健診などで障害が発見された障害児の親たちを集めて作った会です。この会を運動母体として運動が始まりました。これが第一にまとめる力になりやすかったし、分裂しないで済んだのだと思います。

実態調査をする

 養護学校在籍者や年度別卒業予定者数を練馬区福祉課では把握していなかったので、教育委員会などに行って区周辺の養護学校の実態調査をしました。(1979-1980年)

『練馬に公立の障害者の実習所(作業所)を作る会』を発足させる(1980)
 公立の通所施設を作るという目的に絞らなければ見通しが立たないことが分かりました。『練馬区障害児(者)を持つ親の会』だけでは力が弱いので、他団体(当時11団体あった)で通所施設を必要とする会員を抱えている団体に呼び掛けて協力を要請しました。その結果、区内の4団体(『手をつなぐ親の会』『肢体不自由児者父母の会』『すみれ会』(途中消滅))と卒業を控えて切羽詰まっている母親たちの個人参加という2本立の横断組織を作りました。各団体からの拠出金(年間5,000円)はコピー代に消えてしまいました。こういう運動は手弁当と雑用覚悟で自分でやらないと出来ません。他人にやらせようと思っても駄目です。
 運動の方法としては、自分たちでバザーetc.の資金調達をしながら、実績によって補助金を申請し、さらに資産を積み、法人化を目指す方法があります。しかし私たちは目的を絞り行政や議会に資料や陳情書・要望書の提出を繰り返し、行政主体でつくってもらうように働きかけて行く方法を選びました。運動の方法にもいろいろあることがわかってきました。

勉強会を頻繁に行う(勉強会や施設見学で学ぶべき事)
 他県・他区にアンテナを張って情報を得ることを考えました。東京は進んでいると言われていたので、他区でどういう事をやっているのか調べました。先生の組合や養護学校のPTAを通しても情報を得ました。
 施設見学の際は、どんな法的根拠(福祉8法や条例)に基づいて作られたものかを知ることです。パンフレット・事業概要に書いてあります。どんな建物で、子供たちにどうやって食べさせているかとかを見ることももちろん良いことですけど、施設をつくろうとして見学をするときは視点が違います。
 民立民営の所長と区立区営の職員(指導係長)を招いて、勉強会(施設・運営財源の問題・職員の確保etc.について)を開きました。

施設の種別
・区条例に拠る生活実習所
・補助金に拠る通所訓練事業(共同作業所等)
・精神薄弱者福祉法に拠る通所更生施設
・身体障害者福祉法に拠る通所訓練施設
・東京都条例に拠る重身通所訓練施設

福祉六法(現在は八法)
・生活保護法
・児童福祉法
・身体障害者福祉法
・精神薄弱者福祉法
・老人福祉法
・母子福祉法

 条例や要綱etc.の資料は各市町村の『情報公開室』などで得ることができます。福祉作業所条例・施設職員の処務規定なども10円払えばコピーできます。通所施設は9時から5時まで開かなければならないということも書いてあるんです。
 知的障害者の施設に、車椅子に乗っていても愛の手帳1度を持っていれば入れないことないんです。設備がないから受け入れられないとか何とでも理由をならべて・・・、皆さん知らないから諦めているだけなんですよ。自分たちで運動を起こすしかないんです。練馬区も最初はそうでした。施設を建て替える時にスロープやエレベーターなどの設備を付けてもらって重度加算をしてもらって入ったんです。
 今の未熟な法律でさえ無視されていることが往々にしてあるんです。だからしっかり頭に入れて区長さんなり市長さんや行政に向かった時、言われた事に対して反論できる所はたくさんあります。この法律をかざして「ここにこう書いてあるじゃないですか」と迫ったこともあります。こういうことも、運動をやっていくうちに学んだんです。

どこが建てて、誰が運営するのか(そのプラス面とマイナス面)
・区立区営
・区立民営(社会福祉法人や財団法人etc.に委託)
・民立民営

 これらの勉強をしていく中で、練馬区の実情(建ててもらえるかどうかの感触)と運動に参加している人(重身・重複障害者の母親)の要求から可能な通所施設を選択し、区立区営の生活実習所を選びました。その理由は先ず障害の重い子でも受入れ可能だったということ、利用者を処遇するための条件(職員配置etc.)が最も良かったことです。障害が重くなればなるほど公的な力(財源・看護婦や理学療法士などの専門職員)が不可欠であることを実感しました。通所バスも必要ですし、職員の定着ということも大事だとわかって来たんです。それと同時に職員の質の面(資格)も重要な問題です。親が運営することには限界があります。「福祉とは何ぞや」親が作って親が運営して親が看ろなんて、福祉ではないですよ。親の労働過重や障害者の精神的自立の妨げにもなるのです。地方公共団体としての責務も心身障害者対策基本法に明記してあります。

 土地は買ってしまえば区の資産になってしまうけれど、運営はずーっと永久にして行かなければなりません。職員の退職金まで保証していかなければなりません。だから一番難しい区立区営を目指しました。そこを目指して、できなければ条件を落としていこうと。民間委託であれば、事故が起きても区は責任を持つ必要もないわけですよ。もちろんマイナス面もあるにはあるのですよ。

運動のすすめ方

 行政計画(区長期総合計画や国際障害者年計画)には必ずと言ってよいほど参加し、要望書を提出しました。計画の中味には立派なことを言ってはいるが、具体的にはやっていないという事も知るべきです。

 後でわかったのですが、文書を提出して実情を訴えることが大切なのです。親としての心情、子供達にはなぜ必要か、どう困るか・・・訴える力のある文面で、理念(国際障害者年や行政計画)や法律(心身障害者対策基本法etc.)をてこにするのです。

 運動をして施設をつくるまでには年数がかかります。運動を担う人(公的なものを建てる場合)は全体を把握してひとつひとつ確約していかなければなりません。運動というのは継続してやっていかなければなりません。2~3年のかかわりでは課長・区長と向かった時、「前の課長とはここまで約束しています」と反論することが出来ませんよね。PTAでは継続的な活動は難しいのです。

 行政と話をしに行くときは必ず何人かと行ってみんなで聞きます。ひとりでいくことはありませんでした。5~6人というのは結構適当な人数なんですよね。それで感触をみるわけなんですよね。大切な事を聞き漏らすことも防げますし。大勢だと嫌がられることもあります。


[施設が出来るまでのプロセス]
        行政担当部課(障害福祉課etc.)
 区の了解 - に必要性を訴えて認識させる。  - 行政計画 - 議会の採択
        課長・区長を説得して了解を得る。

 - 予算の計上 - 用地買収 - 設計 - 建設 - 開所


 議会に対しては、陳情書や請願書を出します。政党は全部を公平に回ります。でないと勝手にレッテル貼られちゃうんですよ。個人の思想信条は自由ですけれど、会としては特定の政党に行くのはまずいんですよね。特定の政党にかたよると他から反対されて、駄目になっちゃうんですね。あくまで超党派でやります。委員会審議は全て傍聴し、疑問を呈した議員に対しては個別に説明に行きます。行政・議会の説得は絶対あきらめないということが大事なんです。

 どんなに急いでも施設が出来るまでに最低5年、普通で7~8年はかかります。特に用地買収に時間がかかります。30~48名入れるとすると 1,500平米が必要になります。(車椅子の身体障害者と歩ける知的障害者とでは1人が必要とする面積が違う)用地買収については、区の方からは何も言って来ないので、こちらから聞く。未だ買収が出来ていないのなら、どこでつまづいているのかを聞きます。そうした場合は実際に親も歩き回って探します。なかなか土地が見付からないで農協に頼みに行ったこともあります。

 当時は相続のために土地を手放すという時代だったので、夏の暑い盛り汗水たらしてキャベツ畑を見に行ったこともありました。実際には親たちよりも用地課の方が情報のキャッチは早いんですけどね、そういう一生懸命の親たちの姿が、福祉課とか用地課にとっては「やってやらなければならない」という事態に追い込まれるのですよ。そういうことが区を動かす原動力になるのですよね。だから単なるおっ母ちゃん達でも出来ると、私は言うのですよ。

リーダーとしての信念

 自分は一母親ですが、代表者として運動を担ってきた者としては、個人への利益誘導は一切やるまいと、用地買収の段階で感じ始めました。家に帰れば弥生の母親でありたいと思い、べったりと育てて来ましたけれど、代表として行動する時は母親としての観念を捨てました。区側が代表としての私の影響力を認識し始めた時に、個人を出していい加減な事をやると逆に私自身を見られてしまうと思いました。代表という立場で、自分の子供に優位にということは一切やりませんでした。予定地を決定する時も、自分に有利な場所ではなくて、区全体の地理を考えて場所を選んだということもありました。
こういうことの積み重ねで区からの信頼も得て来たのではないでしょうか。

これからの課題

 『練馬区立福祉園父母の会連絡会』という4か所の通所施設の父母の会の連絡会をつくって、アンケート調査をしてみたら、子供のかかわりについての不満とか、高齢の親の実情といった問題が出て来た。長期に及んで介護出来なくなった場合は、実に3分の1の親が公的な入所施設に入りたいという結果が出ました。このアンケートをまとめて統計を取るまでに半年かかりました。母子家庭が増えていることがわかってきています。
母親が亡くなって通所施設に通えるケースはほとんどありません。だからそうした場合は福祉事務所が対応してもらわなくては困るわけです。ケースマネージメントしてもらって、その子に合った措置をコーディネイトしてもらいたいのです。
 今はこういう制度づくりの運動をするために連絡会を結成したいので、建設運動はやめました。つくる方は若いお母さんに任せて、今は高齢化する親とその通所者をバックアップする方策を考えています。施設をつくって入った後は高齢化の問題が待っているのです。
                          (採録:冨井 るり子)